記憶の線路
僕には幼い頃の不思議な記憶がある。祖父に連れられて、小さな山間の駅から一両編成のローカル線に乗った記憶だ。緑の車体、木製の座席、窓から入る涼しい風——まるで昭和の絵本から抜け出したような風景。列車は谷沿いをゆっくりと走り、トンネルをいくつもくぐって、終点の駅に着いた。そこは静かな終着駅で、ホームの先は行き止まりになっていた。祖父と降り立った時、白いワンピースを着た同い年くらいの女の子が一人、ホームの片隅でこちらを見ていたのを覚えている。僕が会釈すると、彼女ははにかんだように笑い、小さく手を振った。
大人になった今でも、その光景は鮮明に浮かぶ。しかし不思議なことに、家族に聞いてもそんな旅は覚えていないという。祖父も既に亡い。あの山奥のローカル線について調べようとしても、該当しそうな鉄道は見当たらなかった。僕が育った町に鉄道が通っていた歴史もない。それなら、あの記憶はいったい何なのか。
久しぶりに帰省した折、僕は居ても立ってもいられず、記憶の中の山道を辿ってみることにした。曖昧な手がかりを頼りに車を走らせ、祖父に連れて行かれたはずの山あいの峠道を探す。細い舗装路を進み、やがて行き止まりに突き当たった。車を降り、そこから先は徒歩で沢沿いの獣道を分け入った。苔むした石垣が断続的に続いている。自然のものではない、人の手が入った痕跡。胸が高鳴った。
しばらく行くと、木々の間にぽっかりと開けた空間が現れた。驚いたことに、そこには小さなコンクリートのプラットホームらしき構造物が残っていたのだ。雑草に覆われ苔にまみれているが、明らかに人工のホームだった。僕は夢中で近づき、朽ちた駅名標を探した。しかし看板はすでになく、柱だけがさびしく立っているだけだった。
足元に目を落とすと、枕木らしき木片が土に埋もれている。指先で土を払うと、赤茶けたレールの切れ端が覗いた。確かにここに線路があったのだ。辺りを見回すと、木陰に古びた待合所の残骸も見つけた。屋根の一部とベンチが原形を留めている。僕は息を呑んだ。この場所は現実なのか、それとも自分の思い込みが生んだ幻なのか——。
ベンチに腰掛け、草むらを静かに眺める。蝉の声だけが響き、人の気配はない。気づけば夕暮れが近い。帰ろうかと腰を上げたとき、背後からかすかな笑い声が聞こえた気がした。はっとして振り向く。誰もいない。ただ風が木々を揺らしていただけだった。
気のせいだろうと歩き出そうとしたその時、草むらの奥で何か白いものが動いた。目を凝らすと、小さな女の子が一人立っていた。白いワンピース——あの日、終着駅で見かけた子だ。胸が高鳴る。女の子はこちらをじっと見つめている。信じられない思いで一歩踏み出すと、彼女はくるりと背を向け森の中へ消えた。慌てて後を追ったが、そこには誰もいない。静寂だけが佇んでいた。
茜色に染まる空の下、仕方なく来た道を戻り始めた。頭の中は混乱していた。ホーム跡も女の子の姿も、この目で見たはずなのに現実味が薄い。まるで記憶がそのまま風景に紛れ込んだような感覚だった。
峠道まで戻り、車に乗り込む。エンジンをかけた時、遠く山の向こうから汽笛のような音が聞こえた気がした。「ボーッ…」という懐かしい響き。胸がざわめく。耳を澄ますと、それは二度と聞こえなかった。空耳だろうか。それとも、どこかで今もあの列車が走っているのだろうか。
帰路につきながら、僕はハンドルを握る手に力を込めた。現実と記憶の境界があやふやになっている。この不思議な体験を誰かに話しても、きっと信じてもらえないだろう。ただ、あの夏の日の終着駅で交わした視線と微笑みだけが、確かに僕の中に生き続けている。あの線路が記憶の中だけでなく、どこか遠い時間の中で今も伸びていることを、僕はそっと願っていた。
  
  
  
  

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